傍に居ろよ
ただイチャつくだけの克達。珍しいね。


仕事から疲れて帰ってくると、部屋の電気は殆ど消されていた。
玄関に靴はある。

周防克哉は少々寂しさを覚えつつ、スーツを脱ぎながら寝室へ向かった。

「達哉?」

部屋は常夜灯がついている。一応人が返ってくることは頭にあったらしい。
暗がりに慣れた目が漸く同居人の顔を捕らえた。

「よかった…ちゃんと生きて帰ってきているな。」

何の仕事をしているのか知らないが、達哉は時折傷だらけになって帰ってきているようだった。
若さゆえかすぐに傷は治るのだが、正直いって不安しかない。
それでも黙って詰問せずに堪えているのは、達哉への信頼を彼に伝えるためだ。
いつか話すと言ってくれた言葉を愚直に信じて、その時が来るのを待っている。

今できることは、耐えることと、達哉の隣にそっと腰を掛けて寝顔を堪能すること。それくらいだ。

二人暮らしをするにあたってダブルベッドを所望したのは克哉だ。当然達哉は嫌がった。
だが体の関係を持つようになってから抵抗は無くなったのか何も言わなくなったし、隣で寝ていても全く気にしていない様子で、心を許された気がして嬉しい。
もっとも最近はすれ違う生活が続き、「おはよう」や「おやすみ」も言えない日が続いていて、二人暮らしをしていることを忘れそうな寂しい毎日だ。

唯一の町となった珠閒瑠市も落ち着いてきて、以前のような喧噪の日々だ。
特殊な事件こそ減りはしたが、そもそも港南署は爆破されたお陰で仮設のままだし人員不足だ。事件当時町の大混乱収拾のため殆どが駆り出されていたものの、片手では済まない人数の仲間を失った。だからこそ本当なら達哉には協力者として手伝ってもらいたいのだが、本人は何か別のことに必死だ。

イデアリアンの夢によって見せつけられた己の願望と向き合って、何とか想いを伝えて達哉と一緒になったというのに。
早く平和になってもらいたいものだ。

「はぁ…お前の声が恋しいよ。」

髪を優しく撫でて寝顔を満喫して、さて風呂にでも入ろうと立ち上がろうとすると、シャツに引っかかるものがあった。
達哉の指が少しだけシャツを掴んでいる。

「達哉……?」

起きているのかと思ったが、掴んでいた手がポトンと落ちた。やはり寝ているようだ。
だがその手は創傷があり、布団からちらりと覗いた腕にも傷が見えた。

急に不安になる。達哉はここに居て眠っているというのに、どこか遠くへ行ってしまう気がして怖くなる。
無意識に引き留めた指を優しくあやして、「すぐに戻ってくるよ」と髪にキスをしてから、克哉はシャワーを浴びに行った。

普段は弱みなんておくびにも出さないのに、意識のない時に隙を見せる。根は素直なのにプライドのせいで素直に助けを求められないのは昔からだ。
引き留めようとしたのは達哉の無意識で、助けを求めるサインなのだろうか。
そんなことを考えると悠長にしている気にもならず、克哉は早々にシャワーを終えると着替えてベッドに向かった。
本当なら湯舟でゆっくり浸かって疲れをとるべきなのだろうが、体は弟の体温を求めていた。

一応開けてくれているベッドの端から布団の中に潜り込む。
布団の中は暖かく、大事な人が生きていることを実感する。

「おやすみ、達哉。」

電気を消して、弟を抱き寄せた。
自分よりも育った体は、今夜ばかりは少しだけ、小さく思えた。






まだ朝日が柔らかい時分に克哉は目を覚ました。

今日は休みだからもっとゆっくり眠っていもいいのだけれど、達哉にはどうしても会いたかった。
うっかり寝過ごして、起きたら達哉が家を出ていたなんてこともあったから、会いたいのなら起きているのが確実だ。

幸い達哉はまだ腕の中にいた。
克哉は起こさないように細心の注意を払いつつ、眼鏡をかけて寝顔を見る。
朝日の中で見る弟の寝顔は夜見たものより穏やかな気がする。

「ふふ…昔と変わらないな。」

達哉が起きるまでこうしていよう。
ベッドの周辺をまさぐり、読みかけだった本を見つける。達哉を抱き込むように腕を回して、久しぶりの温もりを抱きしめながら、読書など始める。

子どもの頃は何度かこんなことをした気がする。
あの時と二人の関係は変わったけれど、あの頃と同じような匂いや温もりに心が安らいだ。
弟の傷が治るまでこうして傍に居てやりたい。それは拗れた独占欲ではなく、純粋な庇護欲だ。

朝日が高くなってすっかり明るくなった頃、漸く腕の中でもぞもぞと動きがあった。

「…ん……」
「起きたか?」
「ん……?にいさん……?」

腕を離して解放したが、特に起きるつもりはないらしい。
うぐうぐと体を捩って兄と目線を合わせただけだった。

「おはよう。」
「……おはよ。珍しいな。」
「ああ、そうだな。」

本を置き、達哉の跳ねた髪を撫でる。怒られるかと思ったが猫のように目を細めるだけで逃げるそぶりはない。
達哉がこんなリアクションをするなんて本当に珍しい。
普段はもっと甘えてほしいと思っているのに、いざこんなことをされると心配になってしまうなんてワガママだろうか。

「兄さん、やすみ?」
「ああ、今日は非番だよ。」
「そう。」

精悍な瞳がくすんで見える。何か憂い事でもあるのだろうか。
だが聞いたところで喋る訳もない。それを克哉は十分知っている。

「お前は?今日も仕事か?」
「……。」

達哉の傷を見ると今日は休んだ方が良いと思うのだが、何か責任のある仕事をしているのか、サボリはせずに出勤しているらしい。だが今日はあまり乗り気ではないようだ。
本当なら欠勤は好ましくないが、克哉は自分を選んでもらったような気がして少しだけ嬉しかった。

「危険な仕事をしているのか?」
「尋問?今日非番だろ?」
「質問と言ってくれ。」
「…死にはしない。」
「全く安心できる回答ではないが…まぁ信じるよ。」
「ん。」

達哉はまだどこかぼんやりしている。
何かを想っているのだろうか、遠い目だ。


プルルルルル…

電話が鳴る。克哉の着信音ではないから達哉のだろう。
達哉が枕元をごそごそして電話を見つける。キーを見ずに操作をしているのはそれだけ携帯電話に慣れたということだろうか。
達哉は克哉の腕の中に納まったまま通話を始めた。

「もしもし」

驚く兄のことなど気にせず、電話の向こうの声を聴いている。
克哉はなぜか息を止めた。そして下衆と思いつつ電話の向こうの声が聞こえないか精神を研ぎ澄ます。

「昨日は悪かった。」

やはり昨日は何かあったんだろう。達哉の表情が少しだけ歪む。

「……ちゃんと体調は整えていく。すまない。また明日。」

それだけ言って電話を切り、ぽいっと投げ捨てた。

「達哉、電話は」
「今日は仕事休み。」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫。調子が悪い時に無理するもんじゃないだろ?」
「そうなのか?ああ、まぁそうしてくれると僕としては安心だが。」

達哉がそんな冷静な判断をしたことにも驚いたが、胸に顔を埋められてもっと驚いた。
まるで小学生が父親に甘えるような仕草に嬉しさと戸惑いが隠せない。
ただでさえ悩みを話そうとしないから。

「なにかあったのか?」
「……。」

一応聞いてみるが黙したままだ。慣れたものだが力になれない不甲斐なさが苦しい。

「言えとは言わないが、」
「怖くなった。」

何が?と問うより先に続きを告げられる。

「……兄さんまで、俺の前から居なくなるんじゃないかって。」

久しく聞いたことのない、寂しい声だった。

「だから、今日は、いや、今だけでもいいから、見えるところに居てほしい。」

達哉の肩を強く引き寄せた。
今では自分より大きくなり、体重だって上なのだけれど、
達哉は永遠に自分より8つ下の弟だ。まだ成人だってしていない。

そんな弟の、もう10年無かった"明確な甘え"に応じないなんて出来なかった。

「お前が傍に居ることを願っているのは僕じゃないか。」

一緒に暮らしたいと言ったのも、関係を持ちたいと言ったのも、全ては達哉の隣に居たかったからだ。
大事な人を失ったらしい弟の傍に居て、依存と呼んでも差し支えない関係になってでも必要な存在でありたかった。

「お前こそ、僕の傍に居ればいい。」
「兄さんが居ろよ。」
「むっ」

ワガママを言った自覚があるのだろう、クスっと笑って寝返りをうち、顔を隠す。

「達哉、」
「ん?」
「何で笑った顔を隠そうとするんだ。」
「嫌だから。」

克哉は達哉に被さって意地でも顔を見てやろうと覗き込む。

「なんだよ。」
「偶には年相応の笑った顔を見せてくれても、あ、おい」

達哉がひょいと眼鏡を取って投げ捨てた。
余計に何も見えなくて克哉の目は寄るし、眼鏡が何処へ行ったのかも見えない。
オロオロする克哉を達哉はまた悪戯っ子のように笑う。

「あ、お前、また人のことをからかって」
「顔近づければ見えるだろ?」

達哉の指が克哉の髪に触れて、促されるままに顔を寄せて、そのまま唇に触れた。

一度触れて、次は深く触れて、唇を食み、舌が絡む。

隙間から息が漏れる。達哉の指から力が抜けて、ぽとりとベッドに落ちる。その手を克哉はぎゅっと握り、指を絡める。
離れないように。

「ッ…ながい…」
「1週間分だ。」

唇を離すと同時に不平が出るのは何時ものことだ。少し調子が戻ってきたということだろう。
ワガママな弟を再度引き寄せ、腕の中に閉じ込める。

達哉は克哉の顔を覗き込み、すこし嬉しそうにからかう。

「眼鏡してないと兄さんじゃないみたいだ。」
「お前のせいだろう。」
「だって邪魔だったし。」
「邪魔って…眼鏡していてもキスくらい出来るだろ。」
「観察されたくない。兄さんはいつも人のこと観察してる。職業病?」

単純に達哉のことが気になっているだけな気もするが、職業病じゃないとも言い切れない。

「眼鏡は嫌か?コンタクトにした方が良いか?」
「俺が物心ついた頃から兄さん眼鏡してただろ?」
「そうだな。」
「だから俺の中では兄さんは眼鏡なんだ。」
「…眼鏡している人は大体それを言われてしまうな。」
「けどさ。」
「ん?」
「眼鏡してない顔、最近見るようになったから。」

「ああ。」

恋人として交わるときはいつも眼鏡はしていない。

「眼鏡してないの見ると、不思議な気持ちになる。…悪くないなって。」
「そうか。」

達哉にとってはあまり積極的な関係ではない。でも、それでも少しずつ二人のスタンスが近づいているのだと暗にそう言ってくれた。
達哉が居なくなるのを恐れたのは兄としての克哉か、恋人としての克哉か、そんなことは多分解らないし不可分だ、達哉も解っていないのだと思う。

「今何時?」
「解らん。眼鏡もないし、携帯も見つけられない。」
「俺のもどっかやっちゃったから解んない。」
「どうせ休みだ、多少だらけても良いんじゃないか?」
「珍しいな。」
「恋人が珍しく甘やかせてくれるからな。」
「へぇ、そう。」

可愛くないことを言いながら、達哉はまた克哉に抱きつくように縋りついた。
兄は髪や肩を撫でて、背中に腕を回して引き寄せてやる。

「今日は僕の傍にいるんだろう?」

自分がそういって甘えたことを想い出したのか、達哉は意趣返しのように髪を撫ぜる兄の指を軽く抓った。

「兄さんが居ろよ。」
「ああ、分かったよ。」

達哉は兄の腕の中に納まったまま布団に顔を埋め二度目をしようとしている。
まぁ怪我人だ、ゆっくり休む方が良い。
きっと心も疲れている。
もしその疲れの癒しの一つになれるのなら、克哉はそれだけで嬉しかった。

随分日が高くなったが、まぁ良いだろう。
今日は弟の傍に居ていい日らしいし、気が変わるまでは甘やかさせてもらおう。

克哉も眠った。
隣が温かい。